娘の避妊手術

僕には可愛い娘がいる。
スコティッシュフォールド、つまり猫だ。
あと2ヶ月で2才になる。
一緒の家に住み始めて1年ほどになるが、避妊することになった。

避妊には酷く反対だった。
生まれた姿のままでいて欲しかったのと、ベテランの獣医に任せるとしても手術に100%はないし麻酔をするとはいえ開腹手術をするのだ。それを想像しただけでとても自分には耐えられなかった。しかし今のご時世、片耳の先をカットして野良猫たちも避妊か去勢済み。一日中透る大きな声で発情期鳴き続けるのはうちの娘くらいだ。
夜は窓を閉めていたが8月になったら熱帯夜は難しい。その上、娘は発情期になるとマーキングをしてしまい日に三度片付けなくてはいけなかった。見つかりやすい場所ならまだいいが、1週間見つからずに床板が傷んでしまった場所が出てしまった。もちろん賃貸でこれが続くのは許されない。
同居している彼女は潔癖症が酷くなると具合を悪くしてしまうのだが、マーキングで症状は悪化していた。もう避妊するしかない。猫が泣くくらい、マーキングするくらいなんだと心の中では思っていても現実はそんなに簡単じゃない。親やご近所さん、獣医に友達、ネット情報とありとあらゆる意見を見聞きした。それでも正直なところ避妊をしたくない。彼女も避妊反対派だったので踏ん切れずにいた。

夜に何時間も鳴かれるのは辛いのだろう、僕は慣れたが他の人格からはいい加減にしてくれと伝えられていたし、すぐ避妊も決行するべきだと主張も強かった。仕方なく聞きたくなかった人格に意見を聞いてみた。彼は普段、食欲や運動欲に誠実であまり小難しいことは考えないのだが、時たま酷く的を射たことを言うので今回ばかりは意見を聞きたくなかったのだ。
「避妊、どう思う?」と言葉少なげに質問すると「この子は自分たちの元にやってきた。野良猫で産まれたんじゃなくて、ペットショップで産まれたんだからしかたないんだよ」なんて返ってきた。やはり僕は納得してしまった。
これが娘の運命。
人間と関わる猫は軒並み避妊か去勢の世の中。もはやこう言う時代だ。飲み込むしかなかった。夜になると目が覚めるたび避妊のことが頭によぎる。自分だったら何も説明されずに体を切り刻まれて性機能を失ったことも理解できない人生を耐えられるか。しかもそれをするのは大好きで信頼している家族だ。
娘のことを愛している。愛しているからこそ苦しい。

僕がこんなに頭を悩ませて心を痛めてしまったのはもしかしたら自分がトランスジェンダーだからかも知れない。世の中には性と体が違ったからと手術する人がいる。それを応援して認めていく世の中がある。

体を男にするってどんなだろう。手術で本当に男になるんだろうか。体が男としての人生とは。

以前に考えたことのあることが頭によぎっていたのかも知れない。

怖いから手術は嫌だ。もし麻酔にアレルギー反応をおこして心停止したら?入院中はどんな?痛いのだろうか。体が変わったあとに後悔することはないのか?

しかし、主人格は僕一人ではない。男の人格も多いが女の主人格もいる。せっかく女で心も体も一致して産まれてきたのに男陣の体に対する違和感を理由に突然手術して男になったら女の人格たちのその後の人生はどうなるのだろう。
自分だったら許せない。ふざけんなと思う。残りの人生は地獄だろう。止められなかった後悔。裏切った相手と体の中で一生一緒に行き続ける不幸。
娘の避妊は僕にとってはとても大きな問題になっていた。

手術当日、獣医の先生が恐いのか娘はしっぽを足の間に押し込んでいた。手術が終わっても一緒にいられない。怯えながら長い夜をゲージに閉じ込められて過ごさなくてはならない。
手術が終わったと彼女に電話があり、やっと一息つけた。娘の麻酔が切れて目が覚めたタイミングでの電話では傷を舐めてしまうのでカラーを付けたとの報告。普通はつけないらしい。付けて帰って来るものと思っていたので気にはしなかったが、舐めなければ付けられなかったのかと思うと娘が不憫だった。
一泊した夕方、迎えに行くと娘は興奮しきっていた。ゲージから手を出して獣医さんを攻撃しようとしたり威嚇の声をあげていたと報告され、娘らしいと思った。娘は最後まで戦ったのだ。
とてもゲージから出せないと獣医さんに頼まれ、娘を出そうと歩き出すと彼女がドアの前で「私が出したほうがいいと思う」と追い抜いた。ゲージが開いてなお威嚇する娘に躊躇なく手を伸ばし、鷲掴みするように片手で胴体を下から持ち上げそのまま診察台まで歩いていく彼女に思わず獣医さんは「さすが飼い主さん」と感嘆の声をあげていた。
最終チェックも終わりなんとか家まで帰ると、娘は緊張が緩んだのかカラーが辛いのか恐かったことを思い出しているのか甘えまくった。
寝室の扉を閉めると何回も鳴いて動き回るたびカラーがぶつかり大きな音がするので何回も扉を開けた。食事中は膝に乗ってはいけないことにしていたのに膝に乗らないと気が済まないので彼女も僕も乗せて食べた。カラーが邪魔で痒がるとかけない耳に指を突っ込んで耳垢を取った。
1週間、カラーが取れるまでの一日一日を一緒に待った。抜糸当日、ゲージに入って警戒する娘は診察台で大暴れした。獣医さん二人に押さえられながらも体をよじって抵抗する娘。抜糸は中々進まない。威嚇し続ける娘の大きな声で診察室は騒然となった。
なんとか消毒を終えてゲージに入った娘は逃げ出したいのか家に着くまでずっとゲージの隅々を前足で探り続けていた。

家で自由になった娘の姿を前に足が止まる。
もう嫌われたかもしれない。
今は近づかないほうがいいだろうと離れたところに佇んで見つめていると、カラーが取れてご機嫌そうにしていた娘がこちらに気づいて近づいて来た。
そっと脚にすり寄る。
ただそれだけで許された気がした。実際にはまだ怒っているかも知れないし、一生許してくれる気はないかも知れない。それでも今、優しさをくれた。
自分を許せた気がした。
娘は優しい。これからもお互いを大切に生活していけるだろう。僕たち男陣より頼もしい彼女と一緒に。